日本語 English
 
 
漆の歴史
<創成期>
 9000年ほど前の縄文時代前期、北海道垣の島遺跡から出土された朱漆を使った装飾品が出土されたことで、日本が世界における漆の源であろうという説が有力であります(残念ながら2002年、この漆工品とともに6万点余りの出土品が焼失してしまった)。それは悠久の時代を経て、ある時には耐久性を求め、またある時には人々の心を癒す為の加飾手段として、古来より延々とその技術は受け継がれ磨かれてきました。
鳥浜遺跡弁柄塗り土器
『福井県立若狭民族資料館蔵』
<飛鳥時代>
 飛鳥時代には仏教の伝来と時同じくして、法隆寺の”玉虫厨子“など仏具が盛んに作られ、その側面には有名な「捨身飼虎図」が蜜陀絵(漆絵という人もいる)にて流麗に描かれています。
玉虫厨子
『法隆寺蔵』
捨身飼虎図
<奈良時代>
 奈良時代においては仏像彫刻の傑作“阿修羅像”が、脱乾漆(粘土で成形された原形に麻布を張り重ね、その上を刻苧(こくそ)〈木粉と漆などを練り合わせた物〉と言われる下地漆で細部を整え、漆を塗って仕上げる)という漆と布だけで造られた像として世界的に有名です、真摯に真直ぐ見つめる寂しげで苦しげな眼差しは人間の本来持っている刹那ゆえの祈りを感じさせます。
阿修羅像縮小
『興福寺蔵』
<平安時代>
 藤原一族が栄華を極めた時代だけに、漆の名品も数多く作られました。中でも“片輪車蒔絵螺鈿手箱”は形も描かれている題材も実に優美で、平安貴族の生活を垣間見ることが出来ます。
 建造物としては平安時代末期、藤原清衡によって建立された“中尊寺金色堂”はお堂全体が蒔絵 螺鈿 厚い金箔で覆われた漆の芸術空間を創出し、その圧倒的迫力はこの世のものではない極楽浄土をつくりあげ、漆芸術の頂点を極める建造物として、現在も昭和の大修理を経て燦然と輝きを放っています。昭和の大修理の製作主任を務めた、人間国宝であり私の大学時代の恩師である故大場(おおば)松魚(しょうぎょ)先生(2012年没)は、修復の際を振り返って「恐ろしい再生の仕事に取組んだもの」と仰り、当事の漆工技術の高さと規模に感嘆の声を上げておられました。
 また作者不詳とされている日本最古の物語『竹取物語』には、豪華に蒔絵を施したとされる家の中の様子が描かれている部分があり、”漆部“という特殊職人集団ら、すでに漆工に携わる超一流の腕の良い職人衆がいたことがうかがわれます。岩波文庫の”竹取物語“解説部分には、『「美しき屋を作り、漆をぬり、蒔絵をして壁する」という壮麗な空想をほしいままにしえたのは、またやはり、彼が漆工に関係あった士族のながれをひくものであったからではないだろうか。』と記してあり、物語の作者は漆部の流れをひく人ではなかったかと推察しています。これは非常に興味深い推察であり、もしそうであったら、私達漆に携わる者にとって、素晴らしい文人先輩を持っていることを誇りに思うところです。
片輪車蒔絵螺鈿手箱
『東京国立博物館蔵』
中尊寺金色堂内陣
『中尊寺蔵』
<鎌倉時代>
 鎌倉から室町にかけて今でも博物館などでよく見られる漆器に“根来塗り”があります。紀州にある真義真言宗の総本山である根来寺の僧達が、自分達の日常使う器物に朱漆や黒漆を塗ったもので、上塗りされた朱漆が長い年月の使用によって磨耗し、中塗りの黒漆が表出し、その時代を経た妙味が今もって至極珍重されています。ここで注意しなくてはいけないことは、長い年月磨耗してもなお美しさを失わないほどに、しっかりとした下地がちゃんと施されていたということです。
 蒔絵に関してはこの時代に蒔絵粉の開発が進み、ごく微細な金銀粉まで作られるようになったそうで、室町時代にはすでに今ある漆工芸のほぼ全ての技法が確立されたのではと考えられます。
根来塗り瓶子
『東京国立博物館蔵』
<室町時代>
 室町時代末期における漆工品の代表的なものに、豊臣秀吉の正室北政所様が秀吉の霊を祀るために1606年に創建した高台寺内に造った漆塗りの霊廟があります。この霊廟を飾った蒔絵は“高台寺蒔絵”と称されるほど特徴ある平蒔絵(ひらまきえ)(研ぎ出し蒔絵に対して、細かな銀金粉を使用し、磨き上げていくだけの蒔絵)であります。またその平蒔絵を施した調度品が、日本の代表的な輸出品として、海外に輸出されていくことになりました。
高台寺内陣
『高台寺蔵』
<江戸時代>
 江戸時代は日本のあらゆる文化が花開く安定期であり、漆においても“本阿弥光悦”の”琳派“をはじめとした芸術家が出現し、独自の漆作品を世に残しました。”船橋蒔絵硯箱“に見られるように、その斬新な造形と意匠はまさに工芸品の域を超えた芸術品として昇化されたと思われます。
 江戸時代の代表的な漆の素晴らしい小品に“印籠”があります。 極めて小さな物でありますが、ボディーは和紙を何枚も張り重ねて作った一閑張り(いっかんばり)の技法を用い、その上から繊細な蒔絵を施しています。武士はもとより江戸の上層階級の持ち物で、ステイタスのひとつとして、薬丸などを入れる容器として、身につけられていたようです。
 また漆塗りの生活雑器が全国各産地で作られるようになり、日本の文化にはなくてはならない什器として現在に至っています。箸から椀 家具 建築内装まで、私たちに日本独自の文化として今もなお生活に潤いを与えてくれています。
舟橋蒔絵硯箱
『東京国立博物館蔵』
印籠
<明治時代>
 武士の時代に終わりを告げ、立憲君主国として開国してからは、欧州各国で開催される博覧会において、漆工品は日本の代表的な工芸品として世界に発表紹介され、各種賞に輝き、その精巧な蒔絵の技は西欧においてますます認めらていきます。明治期の代表的な作家である、柴田是真(しばたぜしん)氏 六角紫水(ろっかくしすい)氏 白山松哉(はくさんしょうさい)氏は、日本美術院を創設し、現代漆工芸の礎を築くことになりました。
梅蒔絵硯箱
『白山松哉作』
<大正・昭和時代>
 帝展(現在の日展)が1907年第一回文部省展覧会として開催されるようになってから、漆芸品は芸術品としての道を歩み始めます。そして戦後、帝展から伝統工芸展が分かれていきます。伝統工芸展を率いた昭和の漆の天才 松田権六(まつだごんろく)氏(人間国宝)の作品の数々は、感銘を私に与えてくれます。第二次大戦中(1943年)に弟子の大場松魚(おおばしょうぎょ)氏(人間国宝)と共に制作した“蓬莱の棚”を見ても、その壮大さと技量の素晴らしさがわかります。
 一方、日展の高橋節郎(たかはしせつろう)氏(文化勲章授章者)に代表される漆パネルの作品の数々は、漆をよりアートとして発展させた点において、特筆すべき漆工品として位置付けられるのではないでしょうか。
 蓬莱之棚
『松田権六作』
 遠い記憶部分
『高橋節郎作』
 平文輪彩箱
『大場松魚作』
<平成時代>
 漆工品は現代において、日展を中心としたアート作品、伝統工芸品、また実用品としての漆器などが渾然としているのが現状です。
 そんな中で、1998年開催されました長野冬季オリンピックの際に、勝者の胸を飾った金銀銅合わせて500個あまりの金属と組み合わされた漆メダルが海を渡り再び世界に飛び出していきました。若き頃より漆に携わってきました私にとって、漆メダル提案制作者として日本の漆の歴史に少しばかり足跡を残せましたことは個人的に非常に幸運であり感慨深いものがあります。
長野冬季オリンピック
漆メダル
また、時は21世紀に突入、ハイテク化がより一層進む中で手作りゆえの工芸の難しい時代を迎えています。そして、そこから一歩踏み出したい!・・・
そう願い、あがきながら私自身の手による私の為の2本の腕時計『太陽と月』が多くの企業 皆さんの協力を得て完成しました。
あ~、結局自画自賛だ!
※上記使用写真に関しては東京国立博物館ほかのHPなどより抜粋、一部承認ずみ。