長野オリンピックメダルの記憶

長野オリンピックメダル

官と民が造りあげた長野オリンピック入賞メダル
(長野県自治研修所、新人労務課職員の教養講座より)
平成8年9月16日 
(カッコ部 のち追加推敲)
                              伊藤 猛

 私は職人のように勤勉でなく、漆芸家ほど優秀ではなく、商人としても、それほど経済活動に真剣に取り組んでいない人間であり、「何か面白いことはないか?」と、夢を見たり、時に「このままで、日本はいいのか?」と、今の世界に疑問を抱いたりしながら、物造りに携わっている人間です。しかし、想い続けることは大切なことで、こんな私の様な者ですが、幸運にも、いろいろな人々に助けられ、この度の長野オリンピックの漆メダルの提案、試作、製作まで携わることができました。漆メダルの提案からの4年間を振り返りますと、何の肩書きを持たない私にとりまして、それは一種の官との闘いの様なものでした。というわけで、メダル造りを通じ皆さんのような役人と言われる多くの人々に接する機会がありました。その辺の話を良きにつけ悪しきにつけ絡めながら、この度の長野オリンピック入賞メダル実現するまでのお話と、私が最近自分を振り返るために屋久島に逃げ出していったお話をしたいと思います。
 元来グータラであります私が、この様な世界的なイベントの勝者の勲章であるメダル造りに時たま出くわしたものですから、急に忙しく働かざるをえなくなってしまいました。その反動が大きく、今年は何もする気になれない状態でありまして、7月かねてからの念願でありました屋久島に行ったわけであります。「屋久島は、1月に35日雨が降る」といわれるほど雨が多いことで有名ですが、鹿児島の南端から、60キロメートル南に位置した、周囲140キロメートルの島です。その島の中に九州で一番高い山であります、宮の浦岳を初め、推定7200年前といわれています縄文杉があります。冬でも頂上付近では雪がつもり、積雪は2メートルに及ぶそうですから南国といっても、海抜0メートルから山頂の2000メートルの間には熱帯植物から、温帯植物まで標高に応じてみられます。山頂付近は熊笹で覆われ、意図的に積み上げたのではないかと想われるほどの不思議な形をした石があちこちに見られ、自然が作り上げたオブジェを思わせる高原の美術館のような風景でありました。 縄文杉を初めとした、屋久杉は標高1000メートル付近に多くみられ1993年、その一体が世界文化遺産として登録されたそうです。屋久杉は1000年以上たった杉のことを総称していわれているとのことですが、もともと自然環境に恵まれ、「三代杉」と言われる杉がありまして、伐採したあとから、その株の上に発芽し、さらに伐採発芽を繰り返し、一人ではとうてい抱え切れないほどの大木となっていました。「もともと日本には、木の再生の能力がある土壌だ。」という話を聞いたことがありますが、そんな屋久杉たちをみていると自然が本来もっている再生の力を肌で感じたものです。      
 話が変わりますが、昨年上映され、評判でありました、「もののけ姫」のアニメでもタタラと呼ばれている製鉄職人が登上し、森林をことごとく食いつぶしていく様子が出てきました。皆さんも御存知のとおり、当時タタラ職人にとって、木炭は鉄を精鉄するには欠かせない唯一のエネルギーであったわけで、鉄を造るために多くの森林が、昔の出雲地方一体で伐採され木炭とされ、鉄を製鉄し、また移動し、伐採、製鉄を繰り返したようであります。幸いなことに、今、その森林は豊かに再生しておりますが、「時たま日本にはこの再生の力があったものですから良かったのか?」又、「もののけ姫やアシタカとよばれる先祖たちの活躍で再生したのか?」私にはわかりません。ただ朝鮮半島の森林は、この様なかたちで森林が食いつぶされてしまったという話を、亡き司馬遼太郎さんがエッセイで書かれていることは興味深いことです。また、1990年時点の話になりますが、「毎年、世界におきまして、オーストリア、オランダ、デンマークの国土に匹敵する森林が消失している」そうで、先に、中国で大洪水がありましたが、治水の点からみても、森林を守ることは、大きな問題となってきております。私も物造りをしている一人として、森林に守られながら生かされていることを決して忘れることなきよう、自然の中の動物の一員としてモラルをもって、仕事に取り組んでいかなければいけないと念じているところであります。
 屋久島に出かけたもう一つの目的に、大学時代の友人の妹夫婦が脱サラし、幼い子供を連れ、永住したとの話を聞きましたので、その生活ぶりに触れることでした。屋久島には、かなりドロップアウトした人達が住んでいるようで、私の尋ねた中島一家も、その一人で有り、私の期待を裏切らない素晴しい家族でありました。(ドロップオウトというと何か悪い表現に聞こえてしまいそうですが、わたしのいうドロップアウトというのは、いい意味でのドロップアウトととらえてください。)船をもち、一本釣を生業に子供二人を含め、佐賀から父親を連れ、屋久島に来たそうです。ランプの生活から始まり、10年目を向かえたそうですが、私が行った時は丁度、子供の夏休みの始まりの時で、「子供が夏休みだと自分達も夏休みのようだ。」と、暖かく歓迎してくれました。夜になると、暑いし、湿度も高い島ですので、子供たちは風通しの良い場所に勝手に布団をひき、大人たちの話を聞きながら、自然に寝ていきます。私も風通しの良い場所に布団をひき、子供たちと一緒に寝ました。何か昔を思い出す懐かしい風景にであった気がし、嬉しく思いました。今、中島正道さんは、島の漁業組合の青年部長を務めている43才の方で、年々少なくなっている屋久島の周りの魚を戻そうと、島の沿岸の藻を増やすことを、大学の研究室の力を借りながら、仕事とはかけ離れた形で、取り組んでいきたい。との話をしてくれました。そして先日手紙が来まして、こんなことを書いてくれましたので、ここにご紹介します。         
「海は陸からダメになると思います。陸に住む人の欲からダメになると行ったほうが正しいかもしれません。どうも、黒潮そのものの栄養分が少なくなってきているような気がします。マングローブの伐採、日本の経済成長はこれで支えられたという人もいる。フイリピンの原生林の伐採、もちろん、日本の原生林の消失も、、、考えれば考えるほど気をそがれることばかりですが、ダメでもともと、後何十年生きられるか知りませんが、何とかして沿岸の藻場を蘇らせる、蘇ってもらうようにすることには、生業というニュアンスを越えた、仕事としての意味を感じています、、、。もののけ姫の少女のように、たとえ一人になっても、細々とでも生きているかぎりは、やっていこうと思っています。」と書いてありました。ドキッ!とするばかりの手紙でしたので、ここに紹介しましたが、「隠れていて、決して目立たないが、こんな人々が本当は、日本を支えてくれているような気がします。」経済ばかりを追いかけてきた、今までの日本に足りないもの、それは、「地球に対するいたわりであり、人に対する愛情のような気がします。」私も、メダルを提案してから4年あまり、ただそれだけを追いかけてきましたので、多く反省することばかりでありますが、こんな人に会えてよかったな。という屋久島でありました。
 屋久島の帰り、陸軍の特攻基地のありました、鹿児島の知覧町に立ち寄りました。亡き父の旧制松本中学の同期生で、私の先輩にもなる、上原良司さんの手記をこの目で見たかったからであります。その手記は{戦没学生の手記}として、「きけわだつみのこえ」という本になり、掲載されておりますが、父の存命中、その本を読みながら、「アイツは、こんなことを考えていたのか?」と、つぶやいてちたのが気になっていました。知覧には、「特攻平和記念館」なる建物がありまして、その中の一つの遺品として上原さんの手記は残っておりました。その手記の内容は、「全体主義の気分につつまれている日本が、自然な自由主義を持った国に負けるのは、火を見るより明らかなことであるが、、、驕れる者久からずの例えのとおり、この戦に米英が勝ったとしても、彼らが必ず破れる日が来る、、、私には、何も言う権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめんことを、国民の皆様方にお願いするのみです。」という内容のものでありました。このような考え方を持ちながら特攻隊員として、突撃していった若い人達のことを知ったとき、私にとってとてもショックなことでありました。きっと、亡き父もそう感じたのだろうと思いました。たくさんの遺品が残されておりますが、17才を最年少に、多くの若者が、当時の敗戦濃厚な日本と知りつつ、日本の再生を願い、沖縄沿岸上陸目前の敵艦隊を目指し、この知覧を飛び立っていったようであります。ちょうど、自民党の総裁選の時であり、このような若き命と引き換えに、この日本の再生を願って、南方の海に飛んでいった若者のことを考えると、なんとも情けなく感じたものでした。そして、当時の大営本部と、今の官僚システムを思わず、投影しておりました。私は、右でも左でもありませんが、国をつかさどる人々の手により、私たちは従うしかないのは、今も何ら変わりありません。私達も、この先輩達のように、『死して再生を願う』ということにならぬよう、今の混沌とした日本において、また自治体におきまして、良識を持った、間違いのない決断を願いたいものです。
 もうひとつ、その会館ではレシバーで、解説を聞けるようになっていたのですが、何故か?レシバーを聞きながら、涙が出て仕方ない詩がありましたのでここにご紹介します。

『あんまり緑が美しい。
これから死にに行くことすら
忘れてしまいそうだ。
真っ青な空、ポカリと浮かぶ白い雲
6月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる
[作戦命令を待っている間に]
小鳥の声が楽しそう
日のあたる草の上に寝転びながら
杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
本日13時35分
いよいよ知覧を離陸する
あこがれの祖国よさらば
使いなれた万年筆を かたみに送ります』
枝 幹二

というものであります。この方は、富山県出身の、当時22歳の大尉の方でありますが、死を目前にここまで明るく自然と一体となった、情景描写が出来ることが不思議でありました。しかし、今考えますと、「死に対する覚悟」が出来ていたからこそ、ここまで、冷静にして自然と一体となることが出来たのではないかと、最近考えるようになりました。この「覚悟」というのが、今の日本には遠い昔の言葉のように思えます。よく云われておりますように、明治維新を成し遂げた、幕末の若者達には、日本の迫り来る危機に対し、命を懸けた覚悟があったと云われております。しかし、今の政治を見るかぎりにおいて、皆責任の回避となれ合いで、どれだけの政治家が、官僚が、覚悟を決めて、決断してきているでしょうか?
今の日本の危機に際し、誤ることなくかつ俊敏な判断を下さなくてはいけない時、その覚悟がいよいよ政治家、官僚、そして、自治体におきましても、問われる時が来たのではないかと思っています。大変長い屋久島の話になってしまいましたが、メダルの本製作にはいる時、私の村の上の人が、私に『伊藤君は、ものを作ってさえいればいい。』という趣旨のことをおっしゃいましたので、『私は、ものを作るだけに興味があるわけでなく、人間関係を良好に築いていかことにおいて、ものを作る以上に興味があるかもしれません。』と言ったことがあります。今の時代において、職人は、ただ物をつくっていればいいというのは、死ね!と言うようなものでありまして、自分を取り巻いている環境、時代をしっかり把握した中で、物作りに取り組んでいかなければ生きていけない時代にきていると思います。
「物造り』といえば、この度の長野オリンピックの入賞メダルが大勢の力により、世の中に出ましたように、一人ではどうすることも出来ないものであります。そして、私のように官にも組織にも属していない人間にとって、漆メダルの実現は、ある意味での官に対する闘いのようなものでありました。今にして思えば、私の持っている許容範囲を越えた仕事のせいか、あまり思いだしたくないほどでありますが、覚悟を決めて臨んだ多くの人がこの漆メダル実現のためにいたことだけは、私の口から伝えなければいけないことで、どの様な経過のもとに、この度のメダルが出来たのか、お話していこうと思います。
 私が長野オリンピックの漆メダルを現実の夢として描きましたのは、1994年の2月、前回のリレハンメルオリンピックのテレビ中継を見ていた時でした。リレハンメルオリンピックは、ノルウェーの人々の自然との共生という意味において素晴らしいオリンピックであったと思います。それは、ジャンプ台から切り出した石のメダルに象徴されていたと思います。その石のメダルを見たとき、前々回のアルベールビルでは、ガラスを素材にした、クリスタルのメダルであったことは知っておりましたので、『長野では漆のメダルだ!』と、興奮したことを、今でも覚えています。買ったばかりのワープロで早速その機能を確かめながら、簡単な企画書とデザイン画を描いてみました。恥ずかしながら、当時パチンコばかりやっていて、お金がかかってしょうがないものですから、ワープロでも、と東芝のルポを買ったのが、この仕事の始まりです。実に幼い企画書とデザイン画でありました。今にして思えばよくもこのようなもので、と赤面するばかりですが、当時の私はこんなものですが、かなり確信に近いものは持っていた気がします。しかし、私にはNAOC(長野オリンピック組織委員会)につてもありませんので、早速うちの村の村長のところに行きまして、これをNAOCにあげてくれないかと頼みに行きました。そして、村長が、木曽地方事務所長を経て、NAOCにあげてくれました。また一方で、当時、「木曽暮らしの工芸館」という木曽広域地場産業振興センターが4月オープンに控え、「木と暮らしの大賞展」といわれる、コンペが開催されることになっておりまして、作品部門とデザイン部門の2つがありましたので、デザイン部門に応募することにしました。これで一安心したことを覚えております。うまくいけば大賞の100万円は私のもとにはいるし、地場産センターも、オープンに際し、良い打ち上げ花火にもなる。さらに、オリンピックの入賞メダルというものは、とても個人では出来るものでもないし、公から発信できる土壌が出来たと思ったからです。しかし、どういう事情か、コンペにおいては結局選外となり、それゆえ、地場産センターの打ち上げ花火にもなりませんでした。しかし、問題は漆メダルが実現することです。4ヶ月程経てもいっこうに事が運びません。地場産センターに向けて何回かプッシュしましたが、いっこうに良き返事がもらえません。この仕事には、企画書にもあげてありましたように、長野県の精密加工技術が不可欠なものでしたから、当時のセイコーエプソンのあとおしは必要だし、私もいい加減業を煮やしておりました。そうしているうちに、電話がありまして、行きますと、『すでにセイコーエプソンが、ある平沢の漆器業者のところにメダルの話が持ち込まれていて、村や組合単位で出来ることではなく、お金もかかるし、あきらめてくれ!』とのことでした。4ヶ月という時間も経過していたこともあり、あまりのショックに開いた口がふさがりませんでした。非常に残念でありましたが、公を頼りにした自分を悔いました。しかし、あきらめきれず、依然(大学を卒業したての頃)セイコーの漆塗り提げ時計を開発するに当たって、お世話になりました、草間三郎さん(平成14年、セイコーエプソンの社長になる)が、取締役になっておりましたので、電話しますと、「すぐ自宅に来い。」と言ってくれました。行って話を聞いてもらいますと、「そんないい話なら、セイコーエプソンがバックアップするから頑張ってみろ」とのことでした。こんな経過で、セイコーエプソンが公の地場産センターをバックアップしてくれ、地場産センターの理事長である、村長を頭に、NAOCに向け、プレゼンテーションしていく体制が出来ました。その間、いろいろなことがありましたが、とにかく目的は漆のメダルの試作品をつくりあげるために、NAOCに向けプレゼンを開始していくことです。その年の10月、ようやくNAOCにむけての1回目のプレゼンに漕ぎ着けることが出来ました。当時発足したばかりの、NAOCの式典課に向けての第1歩であり、さらに、すでにいろいろなことがあった後でしたので、自分としてもかなり緊張していたことを覚えています。かくかくしかじかで、今度の長野オリンピックでは、是非漆をつかったメダルを提案します。これから試作していくが、それにあたって、大会エンブレム等の使用許可を願うというものでありました。当時、式典課の親分は、青山さんという次長が、しきっておりまして、『漆は、素材なのか、塗料なのか』という意地の悪い質問をされ、自分も返答に困り、お茶を濁して来たことが懐かしく思いだされます。多分、この次点では、漆でメダルといってもピンと来ないのが、現実で、なかなかイメージはわかなかったと思います。試作品をつくるしかないと思いました。それから2ヶ月ほどし、試作品のメダルが出来上がりました。まだ量産には問題はありましが、試作品は、私のデザインと、セイコーのデザインセンターのデザインの2種類の試作品が出来ました。金属加工はセイコーの技術者の方々、漆は私であります。(お金がかかると云われておりましたので、私も、意地にもお金はいただきませんでした。)ほぼ70%の出来であり、私自身少しばかりの自信がありました。NAOC式典課の人達も『想像していた以上の出来です』と、非常に喜んでくれました。この日から、地場産センター、セイコーエプソン、NAOCの式典課が漆メダル実現に向け同じ夢を見ることになりました。
 その後、時が過ぎまして、国家的な事業ということもあり、大阪造幣局が絡みながら、デザイン案を検討し、試作を繰り返し、この度の漆と造幣局の勲章の技術であります七宝を合わせた、メダルが出来ていったわけであります。そして、1996年11月メダル公開となりました。これまで提案から二年と半年あまりの歳月でありました。
 ここで、漆メダルの実現に際し、非常に重要な役割を果たしたのではないかと私個人が思っております人物を御紹介します。この方は、先程もお話しましたが、NAOCの次長でありました、青山真士さんであります。鬼がわらのような顔をしたいかつい感じのおっさんであります。部下を大切にまた、部下も絶対的な信頼を寄せているのが、周りから見ていてもよくわかりました。そんな青山さんでしたが、激務が重なったのでしょう、また、いろいろな気を使われたこともあるのでしょう、大腸にポリープが出来まして、残念なことに、メダルの一般公開の時にはNAOCにはいませんでした。現在は、県庁の企画課長(のち、田中知事就任時、長野県副知事となる)として、無事戻られ、元気に御活躍されている様子で、私としてもホッとしているところです。
 青山さんの印象深いエピソードを一つここで御紹介します。大阪造幣局がはいりまして、三社といいますか、セイコー、地場産センター、大蔵省造幣局のすり合わせの場面がありました。その時、青山さんが契約に際する重要な発言をしました。私の立場というのは、こんな場面で、かなり異質な立場にありました。と言うのは、役人ではなく、会社の社員でもなく、地場産の所員でもない、何のかたがきもないメダルを提案した個人であったのです。そんなわけで、青山さんに食ってかかりました。『それは、今決めることではなくて、これから決めていくことじゃないですか。』と云った気がします。すると、セイコーの企画の課長が、心配し、私の隣に来て、『伊藤さん、もういいから、、、』というのであります。と言うわけで、その場は静かに帰ることにしました。しかし、時が経っても、私の気が収まりません。そんなわけで、1週間ほどたったでしょうか、「青山さんとさしで話がしたい。」と式典課のメダル担当の、高池さんという若いこれまた優秀な人にお願いしました。すると、「いいでしょう」というわけで、青山さんは忙しい時間を私のために割いてくれました。30分程二人だけでいろいろな話をしましたが。もう一つ釈然としません。というわけで、青山さんにこういいました。『青山さん、こんな重要な話を、私達の親分のいないときに話してもらっても困ります。私達の親分は、村長である、理事長です。』と、いったわけであります。こんな生意気な私でしたが、青山さんは、その場で、何も言わず、「明日、楢川に行く、村長の都合を聞いてくれ。」と言うわけであります。内心あまりに早い対応でビックリしましたが、ありがたいと思いました。まさに男という感じでありました。私のようなどこの馬の骨ともわからない、何の肩書きもない人間の話に耳を傾けてくれたのですから、、、青山さんとはこんな人でありました。結局、契約に関しましては、大蔵省造幣局と地場産センターという2者との異例な契約となりました。これは、特筆べきことで、私が、メダルと取り組んできた4年間の中で、最も嬉しく誇らしいことでした。
 真に包容力のある人、と言うのは、こんな人だと思います。どんな立場の人であっても、真剣に耳を傾けようとする姿勢がそこにあります。私の知らないところで、どれほどに、青山さん始め、式典課の人達が国の機関である、造幣局との中を持ちながら、漆のメダル実現のために闘ってくれたかは、想像するだけでも察しがつきます。日本における、過去2回のオリンピックメダル(東京オリンピック、札幌オリンピック)を全て造幣局が造ったことを考えると、また、日本の官僚主導のシステムからして、今回のメダルの特殊性が想像できると思います。これが今回の、『官と民がつくり上げた長野オリンピック入賞メダル』につながったのです。そして、こういった青山さんのようなNAOCの親分が、セイコーエプソンにも、大蔵省造幣局にも、いたからこそ今回のメダルが出来たのではないかと思います。ある意味では、この度のメダルは、今申し上げたその特殊性ゆえに、非常に価値のある、あるべき明日の日本の形を示してくれているメダルではないかと思ったりしています。
 私は、権力などという言葉などなければいいと思います。知らない間に勝手に権力があると思い込むことこそ危険だと思います。落合信彦さんがエッセイで云っておりましたが、「どんなに立派な人格の持ち主でも、長いこと権力の座に座ると狂ってしまう。毛沢東(第二次世界大戦後中国共産党の主相となり、死ぬまで主相の地位に君臨し、その間文化大革命において多くの文化人が殺された。)然り、ゴルバチョフ(ロシアの大統領で社会主義国家から、民主路線を取るが途中で、失脚)然り。」と言っていた気がします。それほどに人間は、弱いものなのであります。『君子危うきに近寄らず。』と、孔子が昔から云っておりますように、極力、そういった立場に進んで立たぬほうが、良き人間でいられるような気がします。しかし、どんな組織におかれても、誰かは必ず、そうした立場に立たざるをえないわけで、そうなった時には、身を捨てる覚悟を決め、対処していって欲しいものです。  
 私達の小さいころには、ガキ大将と呼ばれる親分がいて、私達にいろいろな遊びやら、いじめの限界値なるものを自然と教えてくれた気がします。そんなガキ大将不在の時代に、本物の親分がいてくれたら、もっと子分達も安心して、後から付いていけるのではと思います。皆さんもこれから、組織の中に入っていかれるわけですが、良識のある、良い親分に恵まれることを祈っております。そして、ある立場に立たれたときには、正しい道に導く親分になって欲しいと思います。
 メダルが公式公開となり、私の夢はかなえられたわけでありますが、何分にも内密にしている時間が長かっただけに、「ようやく公に話すことが出来る。」と、ホッ!としたというのが感想で、嬉しいという感覚はありませんでした。マスコミの方も、村に問い合わせたらしいのですが、そのいきさつについてはノーコメントと対応したらしく、一体何を考えているのかと思いました。ようやく木曽漆器、また地場産センターを売り出す絶好の機会がきたのに、、、結局、以前からのつきあいがありました、朝日新聞の若い女性の記者が、私の所に来ましたので、彼女を通じ世に向け、その経過が地元紙ではなく、朝日新聞より発表されるという始末でありました。これには、私もうんざりしました。その後、彼女の手により、私は1997年の元旦の朝日新聞の人のコラムで紹介されました。元旦の新聞ということで、私もビックリしましたが、かなり彼女をいじめたにも係らず粋な計らいをしてくれたものと、今でも彼女に感謝しているところです。このようなわけで、メダルの発案者として世に出ることになったのです。もし、彼女がいなかったら、私は只の地場産の職員となっていたのかもしれません。実際、「地場産の職人製作』と報道した、新聞社がありました。しかし、このようにして、発表される経緯については、私としては本位ではありませんでした。それが、小さな村ゆえ、いろいろな人に気を使ったのか、また、その功績を誰かのものにしたかったのか知りませんが、地場産センター、および村の対応は、予想以上にひどいものでありました。先にも、勝者にしかメダルは渡らないものですが、開催市町村と楢川村に、金銀銅のメダル3セットがNAOCのはからいで、プレゼントされたわけですが、私には、一言の言葉もありませんでした。人間は一言の言葉で、酬われるものです。村長が云うように、あの時諦めたら、出来なかったメダル、もう少し気を使ってくれてもよいのではと、人知れず淋しい思いをいました。
 しかし、どれほどひどい対応であっても、また、「私の夢はかなった。」と言っても、まだ残された仕事をしないわけには行きません。何せメダルの本製作が残っているのですから、、、地場産センターと今度は、最初から契約しないことには、また、気分の悪いことになると思い、8ヶ月の契約を結ぶことになりました。(メダル実現までは、「お金は要らない。出来れば、お金じゃなくてメダルが欲しい。」と、やせがまんしてきましたが、結局、私のしてきた試作ほか諸々の経費は、3年間のことを考えると微々たるものでした。)というわけで、私の本製作の条件は、「私の年の公務員の給料(ボーナスを含む)で」と主張してみました。しかし、「それは出来ない。」ということでした。もうお金のことも面倒でしたので、結局、適当なところでおりあいをつけました。金額的に私の年で、私の持っている技術(たいしたものではありませんが、金属に漆を塗ると言う技術に関してはセイコーの時計を通し、特化していた)を全て伝えながら、情けない金額であったと思いますが、職人に対する報酬というものはこうも低いものかと、情けなくなりました。さて、いろいろ云っている場合ではありません、それよりメダル製作の人選に取り掛からねばなりません。これには大変苦労しました。世界のイベントのメダル、だれしもが係りたかったと思います。しかし、あえて、若い力にこだわりました。(NAOC、地場産センターの意向でもありました)そして、いっさいを任せてもらうという条件でありましたので、好きに計画を立てさせていただきました。その結果、諸々のあつれきもうまれ、この小さな村に生きるつらさも感じましたが、今までのことを思うと、我慢できました。
 若い人達に説明会の中でメダル製作に関わる一つの条件を、提示させていただきました。その条件とは、『常日ごろ、人間関係を良好に保ちたいと思っている人。』と言うのを参加する条件にあげました。「胸に手をあてて考えてみてくれ。」というわけであります。多くの集団の仕事の時、必ず技術的なことで、いつも壊れていく人間関係を見てきたからです。どんな美しいメダルが出来たとしても、仲が崩れることは私において本位でなく、さらに何の価値もないメダルとなってしまいます。これは、私の3年の歳月を経た、メダル造りの信条でもありました。世界の平和のイベントにふさわしい心のこもった、さわやかなメダル造りをしたかったからであります。そして、過疎化と、不況のあおりを受ける漆の村、楢川村におきまして、この若い職人が集い、連帯を培い、新しい技術を習得することが、いつかこの村に良い結果をもたらすのではないかと信じたのです。                               
 最終的に、厳寒の2月7日、オリンピック開催1年前、20代30代の塗師18名が集まり、メダル造りが始まりました。蒔絵という筆を持つ、仕事は40代の方々に応援していただくことにしました。製作の基本方針は、先にも云いましたように、『良好な関係の中でつくられる、メダル造り』です。約500個のメダルを、三期にわけた仕事を計画し、それぞれに目標を立てました。

 1期目は、仕事の手順の確認と、それに関する話し合いと交流を重視しました。
 2期目は、いよいよ仕事の内容がわかったところで、本格的な量産。
 3期目は、1期と2期の歩留まり分を見て、最後の仕上げとして、より完成度の高い自          分達の納得するもの。とすることでした。
 
結果はというと、案外こんなものだ。と言う通り、恐る恐るやる1期目というものは、何も問題なく見事に進みましたが、やはり、仕事の手順をマスターした2期目に問題は起きました。より美しいものを創ろうとする、想い入れの強さと、気候条件の違いから、漆のちょっとした、タイミングを間違えたのです。量産ゆえ、また、最終段階を迎えておりましたので、かなり重い緊張がはしりました。しかし、私達には、目標がありましたので、2期でダメなものはダメとし、誰を責めることもなく、3期目に全てをかけていくことにしました。2期目の反省を元に、20%の力を残して仕事を受け渡していくようにしました。大勢が仕事をしていくとき、どの段階まで進んでいるのかわからずやり過ぎて、失敗することが多くあります、そのための苦肉の策です。それが結果的に良かったのか、3期目は、時間的にも、仕事の内容も3期の中でいちばん納得のいくものでありました。
 ここで、私自身教訓となったことは、「想い入れの強さというのも程々にし、20%の余力を残した、仕事をしよう。」と言うことです。どういうことかと申しますと、20%の余力がある仕事は、まだ修復が可能ですが、100%を目指したとき、修復も出来ず、失敗となってしまうのです。同じように人間関係におきましても、それが夫婦間であっても、やはり、20%ほどの余力を残してやることで、いつでも修復できる関係でいられるのではないかと思います。故、100%の愛情は、危険だということになります。私もどちらかというと、その人間に入れ込んでいくタイプの人間でありまして、対人関係におきまして気をつけなくてはいけないと自戒しております。孔子の言葉に、[恕]ということばがありますが、「己の欲せざるところ、人に施す事なかれ」という意だそうです。人に対し、ある一定の距離をおいて、優しく接していきたいと願うばかりです。
 このように、半年の歳月を経て創った、皆の想いを込めたメダルが、多くの勝者の胸にかけられ、世界中に散らばっていきました。私も幸運にも、アメリカのCBSテレビ局のアンスト、アーロンというオリンピック、コーディネーターの計らいで、清水宏靖選手の日本、悲願の500メートルスピードスケートの金メダルをエムウェーブで、金メダルが清水選手の胸にかけられる瞬間を見ることが出来ました。私にとって4年間の歳月をかけたメダルとの闘いでありましが、日本人がそのメダルを獲得した時の気持ちは、ただ「よくやってくれた清水!」というものであり、なんとも言葉もなく拍手するだけでありました。
 作った若き職人の気持ちは、各々係り方の度合いで違うと思いますが、大勢の若者が力を合わせた、このメダル製作がかならずや、この村を蘇らせてくれることを祈っております。おかげさまで、今もなお、その職人の何人かは、地場産センターにおきまして、金属に漆を塗るという技術を元に、その延長の仕事に携わっております。ありがたいことだと思います。しかし、「今は、技術も大切ですが、心の時代です。」技術に偏ることなく、心を鍛えていって欲しいと思います。そして、その象徴が長野オリンピックメダルの製作で培った、思いやりの心であって欲しいと願っています。
 さらに、私個人におきましては、このプロジェクト全体を通じ、NAOC,セイコーエプソン、造幣局、地場産センターを始めとする関係者の方、あるいは私の気づいていない大勢の人々の力が集まって、今回のメダルという作品が出来たことを感謝し、次のステップとしていきたいと思います。