長野オリンピック
メダル

長野オリンピックメダルの夢 -漆メダルの提案-

私が『1998年の長野オリンピックメダルを漆で!』との夢を描いたのは、その前回大会1994年のノルウェーのリレハンメルオリンピックのテレビ中継を見ていた時でした。リレハンメルオリンピックメダルは自然との共生をかかげ、ジャンプ台から切り出した石を素材にした素晴らしいメダルでした。そして前々回のフランス アルベールビルではフランスらしくクリスタルのメダルでしたから、次の長野では「日本を代表する工芸である漆だ!長野県の精密加工技術を融合したメダルをつくろう!」と考えたのは、今振り返ると至極当たり前のことのように思えます。金属に漆を塗る仕事のノウハウはすでに出来上がっていたし、金属に漆を塗布することは世界のどこの国にメダルがわたっても、木製のように形状が変化する心配はない。さらには、漆と金属とを組合わせることによって、日本らしい素晴らしい漆メダルが出来上がると想像出来たからです。早速一枚の企画書を書きあげました。しかし企画書ができても、私にはNAOC(長野冬季オリンピック組織委員会)につてもなく、当時の楢川村村長からNAOCに送付していただき、さらには(財)木曽広域地場産センター“木曽暮らしの工芸館”の「デザインコンペ」に出品することにしました。しかし残念なことに、4ヶ月ほど経過してから。「お金がかかりすぎて村単位で出来ることではない、あきらめてくれ」との回答があり、私は非常にがっかりしました。しかし今回の漆蒔絵のメダルプロジェクトにおいて、セイコーエプソンの時計に使われている精密加工技術は不可欠だったこともあり、すぐに若い頃から仕事上お世話になっていたセイコーエプソンの重役に経過を話しました。すると「そんな好い話ならセイコーエプソンが後押しするから頑張ってみろ!」と言って下さったのです。その人は、後にセイコーエプソンの社長になられた草間(くさま)三郎(さぶろう)氏です。打ちひしがれていただけに、涙が出るほど嬉しく頼もしい言葉でした。そしてそんな言葉に答えるためにも、真剣に好い物を提示しなくてはいけないという責務も同時に感じました。

その後地場産センターとエプソンと私によるNAOCに向けての最初のプレゼンテーションがありました。2ヵ月後の1994年11月に最初のプレゼンテーション用メダル試作品が出来あがりました。完成度は70%ほどでしたが、企画書に描いた漆メダルの意図するところはほぼ出来上がり、NAOC(長野オリンピック組織委員会)の式典課の人達も大変喜んでくれ、それからはNAOCと同じ夢を見て歩むことになりました。

その後、オリンピックメダルは国家的威信にもかかわるということで、当事の大蔵省造幣局(日本における過去二回の東京 札幌オリンピックメダルはどちらも、造幣局が作ったのです)が加わり、日本を代表する伝統工芸である漆と、造幣局の勲章の技術であり西洋から伝わる工芸である七宝を組み合わせたデザインの方向性が示されます。

最終デザインは、組織委員会のデザイン課が提示した6案より、私を含めた15名ほどの人々が集まり二日間にわたる検討会にて決定、試作品を経て、完成品が出来上がりました。

様々な人が関わって出来たメダル、これが正式に新聞紙上などで公に発表されたのはオリンピック開催一年程前、1996年11月で、企画書を提出してから2年と9ヶ月の歳月がたっていました。極秘に進めてきたプロジェクトだけに、何ともホッとした瞬間でした。


これより後のオリンピックメダル本制作まで含めると、夢を抱いてから実現するまでの4年の月日は、私にとってまるでオリンピック漆メダルとガップリ4つに組む闘いのようなものでした。

現在木曽の緑豊かな山中で、一人静かに仕事をしながら、店を訪ねてくれる様々な人々と出合い 話し 笑い、また以前のようにさまざまなことを創造することが出来るようになりましたこと、今はとても幸せに感じています。そして『40にして惑わず』と孔子がおっしゃっておりますように、ようやく50にして『つまらない事では悩まない』と言う心境になってきました。これからの残された限りある時間を精一杯生き抜いていこうと思っています。

2008年春

メダル試作品

メダル製作工程

メダル完成品

メダルニュース

※メダル一部写真につきましては、NAOCとのメダル制作契約者である地場産業センター『塩尻 木曽暮らしの工芸館』より拝借、使用承認済み